"煮沸責め"
注:本作は成人向けとなっております。ご注意、ご勘弁下さい。
腐ってやがる! 早すぎたんだ!
クロトワ「風の谷のナウシカ」より
01
歯ブラシ、お茶、サツマイモ、放置、言葉嬲
(なぶ)り──それら男の執拗なる責めを
「貴方好みの鉄瓶になりたい」の一心で耐え抜き、今や本来の黒光りを取り戻した鉄瓶子。
金火鉢の柔らかき火力にて、漸く湧かせてもらった白湯、だが男はそれに口付けようとはしなかった。空けられた鋳物の内部にクンクン鼻を寄せる男。嗅がないでっ、恥ずかしい………
「臭い」
「イヤー
ン」
だが、そんな鋳物の身悶えも目に入らぬ様子で、男は告げた。
「まだ、早いな」
賢明である。焦って「煮え湯」を飲むものか。都合24時間に渡り、緑茶と芋の「タンニン」に責め犯された鉄瓶子の、心奥深くにまで染み込んだ
濁りと
匂い……沁みた鋳物の穢れと少女期の性的トラウマは、容易に拭い去ることは出来ぬ──そう物の本にも書いてある。
「その臭いが消え失せる迄は、お前なんぞ湯たんぽの湯沸かしで十分」
そう言い捨てると、男は再び鉄瓶子を火鉢にかけ、休む間もなく熱を与えた。是即ち、
「煮沸洗浄」。冷水を注がれ、熱く沸騰を強いられては、捨てられる……止めどないその繰り返し。だが、鉄瓶子は構わなかった──その身が覚えてしまった、被虐の悦び。湯の滾りに思わず漏らす声も、そんな端たない姿を晒す事も、もう恥ずかしくなかった。鋳物は己を英国から来た頃の、痩せっぽちのソバカス娘バーキンに重ね──
♪あなた……あなたは“水”で 私は裸の鉄瓶ね
私の中を あなたは行ったり来たり 繰り返すの
Je t'aime Je t'aime Oh, oui, je t'aime……
作業は3日目を迎えた。
時折己の変容に、我に帰りて幼子の如き戸惑い表すも、揺らめく蛇口
(コック)の誘惑に、抗い儚く陥落し、自ら蓋を開いては水の注ぎを求めてしまう鉄瓶子。一体何度、蒸気を吹き上げたのかしら? でも、どうぞ旦那様の意の侭に……だってこの「いものみち」、地図を持っているのは貴方だけ──。そう信じて従う鋳物の心を試すかの様に、男は
様々なシチュエーションにて熱を与える。野外、屋内、炭、七輪、囲炉裡、都市ガス、プロパンガス、ペレットストーブ、薪ストーブ、ストーブ代わりの電熱器……甲斐甲斐しくも、総ての火力にて艶かしき沸騰を果たす鋳物。
(※:電磁調理器には向かない鉄瓶もあるのでご注意を)
「有り難うございますっ!……」「汚れた鉄瓶で御免なさいっ!……」
入水と排水……イン&アウトの度に強いられる言葉もいつしか快く、斯くして日中の
「連続煮沸(都合10回以上)」と夜の
「乾燥休養」とを繰り返した鉄瓶子の内部は、
再び赤茶けていた。だが、早とちりする無かれ、これは「赤錆(三酸化鉄)」に非ず。アメとムチの如きその調教が産み出した、絹目細かきこの褐色こそ
「水酸化鉄」──湯に溶出してミネラル分として人体に取り込まれる、言わば「鉄瓶効能の源」である。その証し、いつしかあれ程に燻
(くす)んでいた捨て湯も、今では無色透明に。過酷な責めが刻んだ爪痕──あの臭いも、もう失せた。
だが、男はまだ納得していなかった──
湯垢がつかない。
02
「湯垢? 垢なんて嫌です……」
愛する貴方の為、綺麗で居させて……そう言いかけた鉄瓶子に、男は続けた。
「都会の垢抜けた女の味など、たかが知れたもの。
湯垢に塗れた熟女の如き鉄瓶にこそ美しい心が宿り、美しい水が産まれるのだ」
美しい心……私に? でも旦那様、過去に若い女性と何かあったのかしら?……鉄瓶なりにそんな思案を巡らせていると、屋敷の玄関から物音が。どうやら来客、一人残された鋳物の耳に「若い女」の声が響いてきた──
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「鉄瓶を『鉄瓶子』なんて、頭おかしいんじゃないの?」
「……同じ年頃の若者が街に海に山に青春を謳歌しているというのに貴方ときたら、来る日も来る日も汗と鉄瓶とお茶の匂いが漂う薄暗い台所に閉じこもって、湯を沸かしたり、錆取りしたり、柔軟体操したり、惨めだわ、悲惨だわ。青春と呼ぶにはあまりにも暗過ぎるわ」
「鋳物は魔物よ! 気付いていないの? 貴方が鉄瓶を選んだのでは無い、鉄瓶が貴方を選んだのよ」
「廃品と廃人同士……そうやって慰めあって、朽ちていくがいいわ!」
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戻ってきた男は、何所か寂し気だった。鉄瓶と会話する、それはおかしな事なのだろうか。許されぬ、間違った事なのだろうか──いや、そうでは無い。
「チャグチャグ馬コが 物言うた」(民謡『チャグチャグ馬コ』)
「わたしゃ外山の 日影のワラビ」(民謡『外山節』)
「クラムボンは笑ったよ」(宮沢賢治)
この岩手の地では、古来より人間以外も人として認められ、人格を付与され、共存してきた。この極寒の地に生きる「仲間」として。ある意味、昨今流行の
「擬人化」の先駆けとも言えよう。三陸鉄道「久慈ありす」ちゃん(好物:ホヤの薫製)、みたいな。それを笑われても、蔑まれても、仕方が無いのだ。今この部屋でも確かに、男には鉄瓶子の……ただの湯気の音では無い……囁く様な「歌声」が聴こえてくるのだ──
♪もしも貴方と 会えずに居たら 私は何をしてたでしょうか……
お湯の流れに身を任せ 貴方の色に染められ
一度の沸かし湯それさえ 捨てる事も構わない
だからお願い そばに置いて 今は貴方しか──
鉄瓶子はそこで歌を止めた。静かに見詰める男の視線に気付いた彼女に、その先は歌えなかった。今心に芽生えている感情が愛なのか、もしもこれが本当に愛ならば、しかしこの愛は許されるのか? 所詮己は鋳物の身、刺身の「褄
(つま)」にさえなれぬ。ならば二号でも、何なら28号として悪と戦う覚悟も、鉄瓶28号……。
黙り合い、見詰めあう二人。やがて男が口を開いた──
「俺は旅に出る」
「いつ戻るの」
「それは判らない」
目を合わさず、男は喋り続けた。
「その間、この屋敷は人に預けておく。お前の知らぬ男たち……みな外国人だが、
『昨今、南部鉄瓶は外国で人気』と聞く。せいぜい可愛がって貰え」
ハーモニカ、ポケットに少しの小銭──男は去っていった。その行動の意味も告げぬまま。他の殿方の相手なんて嫌です、いかに中古鉄瓶といえども守るべき操
(みさお)はあります……追い縋ろうにも、だが、まだ火に掛けられたままの彼女に身動きなど許されなかった。漂う永久の
『別れの予感』に、泣き出してしまいそうな鉄瓶子。どこへも行かないで、ガスを止めて側にいて……されど、そんな思いすら口に出来ぬのが鋳物の定め。既に雪の中を遠く遠く去っていった男に、届かぬ事とは知り乍ら、しかし鉄瓶子に出来るのは男に宛てて、さっき止めた歌を続ける事だけ──
今は…… あなたしか愛せない……
(テレサ・テン『時の流れに身をまかせ』)
(この物語はフィクションです。実在の人物・団体などには、いっさい関係ありません。)
【次回予告】
空茶碗を手に待つ我らを他所に、何処へ向かうか──この「いものみち」。次回は作者も驚愕の急展開、愛欲渦巻く第伍話「洋モノ責め」の章へ。再び綻び始めた可憐な花弁を摘むが如く、鉄瓶の背後に忍び寄る影! 諸君よ、次回を待ち給え。身も心も転落する鉄瓶を、受け止める準備せよ!
【特報】
第伍話「洋モノ責め」公開しました。(2009年 03月 13日)
(2009年 03月 01日)